2016年11月12日

神仏分離・廃仏毀釈の名残と、21世紀の神仏再習合。

先週行って来た京都の醍醐寺もそうだけど、元々所謂パワースポット巡りが好きで各地を回ってきたが、どこに行っても役行者(えんのぎょうじゃ)の像があったりと修験(しゅげん)の名残があり、何だろうなと思っていた。
所謂山伏姿で山中で修行をする、日本独自の山岳信仰に仏教が混じったものが修験道(しゅげんどう)と呼ばれ、8世紀に始まったそうだ。

下記はその醍醐寺での動画。
たまたまお寺近くの秋祭りの御神輿の加持祈祷を僧侶の方がやられていて、般若心経を読経されてた(まさしく神仏習合っ! それこそ日本の伝統っ← 一応韻踏んでみた笑)。
二日目に大阪の作郎さんと般若心経の話で盛り上がったばかりなので、シンクロニシティに驚く。
醍醐寺は明治維新の廃仏毀釈まで修験の拠点だったせいか、僧侶の皆さんは山伏風の法衣と法螺貝を手にしておりました。動画には入ってないすが、法螺貝の音ってチベット仏教の喇叭の音を彷彿とさせる響きがありますわな。密教繋がりということなんすかね。



醍醐寺の奥、醍醐寺発祥の地:上醍醐の写真はこちらに。

で、そんな修験の名残に接して来て思い至ったのは、明治政府の廃仏毀釈の苛烈さだ。
今残ってる修験は、明治維新で徹底的に破壊された後、息を吹き返したもののようだけど、廃仏毀釈以前の隆盛は望むべくもないって状態みたいすね。イスラム過激派を批判できないレベルの苛烈な文化弾圧が廃仏毀釈であり、修験に代表される日本の伝統である神仏習合を破壊しまくったわけで。
ただ江戸時代のお寺は、幕府から特権的な地位を与えられていたそうで、そのことで永年鬱積してた庶民の反発が、明治維新時の神仏分離・廃仏毀釈の際に庶民をして苛烈な行動に走らせたことは否めないらしい…。失った文化財や伝統のことを思うと複雑な思いにとらわれますが。

しかし近所でよく訪ねる高尾山にはなぜ明治の廃仏毀釈前の神仏習合の形がちゃんと残ったのでしょう? 薬王院にはお寺と神社双方がちゃんと両立してる。 関東関西の神社仏閣を巡ると、廃仏毀釈によって神社だけが残り寺は廃寺というところが少なく無いので、ちょっとギモンに思ったりした。
下記を読ませていただくと、薬王院の皆さんがご努力されて時代の艱難から信仰の形を守り抜かれたようです。

高尾山の歴史 高尾通信
http://www.takaosan.info/takaosanrekishi.html
(余談ながら、上記を読んで初めて知りましたが薬王院は明治までは京都の醍醐寺系列のお寺だったんすね。いやあ今回醍醐寺に行きたかったわけがちょっと分かった気がした笑。)

高尾山IMGP5456.JPG

高尾山薬王院の神社。画像の鳥居を手前に降りて行ったところにお寺(仏教)の本堂があり(画像をクリックすると拡大されたものが表示されます)。


同じ東京の御嶽(みたけ)神社では、今のお土産店街を抜けたとこにある山門の脇の広い空き地、あそこがお寺の跡だそうだ。廃仏毀釈で神社だけ残りお寺が廃寺になった一例。
武蔵御嶽神社については下記に歴史が。
http://musashimitakejinja.jp/
明治の神仏分離・廃仏毀釈までは御嶽蔵王権現という神仏習合の権現様だったようで(蔵王権現は吉野に残ってますね)、今も残る山門には仁王像が経っていたそうで、神社に変わった時に、今ある神官像に替えられてしまったそうです。何か無粋な像だなと思ってたら(笑)そういうことだそうだ。

御岳門前IMGP7567.JPG

武蔵御嶽神社の山門(随身門)脇の空き地。ここにお寺があったそうです。明治の廃仏毀釈で廃寺に。


熱海の伊豆山も同様で山門の下、海までの参道の両脇がお寺だったそうです。今は住宅地になってしまってるけど。
伊豆山の廃仏毀釈については下記に詳しい。
http://raikou.c.ooco.jp/izusan/report_v2.html

伊豆山参道IMGP5798.JPG

伊豆山神社から海へ下る参道。この両脇が明治維新まで修験の伊豆山権現伊豆山権現社・走湯山般若院というお寺だったそうです。神仏分離で神社はそのまま残り、お寺は規模を縮小して伊豆山神社の南西にこじんまりと残っています。
ウィキペディア→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%B1%B1%E6%A8%A9%E7%8F%BE


他にも最近訪れた大月市の岩殿山麓にも円通寺(岩殿権現もしくは七社権現)という大きな修験のお寺があったそうだが、廃仏毀釈で廃寺になってしまったそうで(哀しいねえ)…。
こちらに詳しく書いてあります。→ http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_iwatonosan.htm

今回醍醐寺参拝の後に久しぶりに再訪した奈良の大神神社の南西側にある平等寺。あそこも明治維新までは今の40倍の敷地を擁する大きなお寺で、敷地の大半は今農地や山林、住宅になってしまってる。その辺りを巡ると所々にお寺時代に作られたと思われる古い立派な石垣が残ってた。吉野や大峰山に連なる修験の拠点だったそうだ。

平等寺IMGP9018.JPG

山辺の道沿いに建つ現在の平等寺。明治の廃仏毀釈で一旦廃寺になった後、昭和52年に再興。ただご住職のお話だと面積が往時の40分の1の規模になってしまったそうです。



三輪IMGP9038.JPG

現在の平等寺から500M程坂を上がったところにある小さな祠の春日神社(現在改修中で祠は無し)。このあたりがかつての本堂が建つお寺の中心地だったらしい。今は山林で大神神社のご神域で禁足地になっています。リンク先の江戸時代の絵地図の左上にあたる場所です。


三輪山もそうだけどパワースポットと呼ばれる神社は修験の拠点だった場所が多い。
修験の寺には徳川家の強力な財政的バックアップもあったそうだ。また修行の為の山道を介した修験行者のネットワークが全国にあったようで、思想的な面そしてネットワークをゲリラ戦に使われる怖れといった政治的な面から明治政府が修験寺を悉く弾圧した面もあるのではと推測してます。

しかし形の上では国家によって強制的に神仏分離されてしまってますが、我々の日常の信仰の形は普通に神仏習合ですもんね。
宮中の神事の内容を詳しくは知りませんが、ゆくゆくは天皇家でも明治以来途絶えてしまっている仏教の加持祈祷を復活していただき、可能なら御所を京都に戻していただきたいってのが個人的な希望ですけど。
明治維新以降150年、日本は国家ぐるみで近代化に走ってきたけど、物質的にはかなり豊かになりました。そろそろ近代化のための方便としての中央集権型の国家体制を終わりにして、地方分権型に戻していくべき時期ではないかと。そのための一つのあり方が神仏習合の復活、それによるアジア大陸との文化的一体性の復権と各地方の独自性の尊重を強めて行くのがよろしいかと考えます。
明治以降の脱亜入欧による近代化をそろそろおしまいにして、文化的にも経済的にも次のフェーズへ移行して行く時期に、我々日本人はさしかかってきてると思うわけです。

そんなこんなパワスポで神仏分離による修験の衰退について考えることが多くて、暫く神仏分離・廃仏毀釈について勉強したいなと思った次第です。
posted by ハギー at 23:55| Comment(0) | いろいろ感想文
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