東京工業大学HP内「セイエッド モハマッド ハタミ大統領講演題目:日本の詩とイランの神秘主義」より
(引用開始)
本日われわれが行なうこの対話のような,あらゆる対話の背後に隠された「危険」について強調しておく必要があるでしょう.この「危険」は,言語そのものの中に潜んでいたり,言葉を交わすことによってもたらされるもので,文化の交差する隘路には,われわれすべてを陥れる,そのような危険が待ち構えているのです.しかしあなた方の内観的な文化の示唆することに解決を求めることで,この危険を乗り越えることが可能となりましょう.そしてわれわれイラン人の偉大なイルファーン思想家たちによる言葉の中にも,同様の可能性が見出されます.
ここでは日本人が「問答」と呼んでいる対話の特殊な技法に着目してみましょう.西欧の言語学者や哲学者たちによる最近の研究をみれば,言葉の深遠で正確な意味による対話は不可能であるとされており,問答や,われわれのイルファーン思想家が,「明示的な」言葉に対して,「隠喩的」な言葉と称しているものに着目することが,いかに重要であるかがよくわかります.西欧の研究者の中には,まったく異なる言葉によって完全に隔てられた二つの文化の間の対話を不可能であるとみなすばかりでなく,同じ言葉を用いながらも人々の間の意志の疎通を困難,ないしはほぼ不可能であるとみなす人がいます.その説によれば,人間は皆それぞれ,互換,再生ともに不可能なので,各人の言葉もまた唯一,比類なきもので,再生不可能である,したがって人間は,個人の心的,精神的な経験を伝達することはできない,ということになります.また別の学者たちによれば,あらゆる言語は,実際にそれを用いる人が,世界や真理,人間との関わりによって築くところの唯一,特殊な関係そのものであります.つまり現実世界は,すべての言語に固有なかたちで,範疇化されたり,分類されるというわけです.
言葉の機能は,一見して明らかに思われるような,事物を明示し,名称をあたえることにとどまるのではありません.言葉は,単に事物に名を付すのではなく,それらを「個別的な」方法によって名付けています.すなわち名付けという行為は,真理や世界に根差す文化の固有な経験に依拠しているのです.このように言語の範疇化,分類のあり方は,それぞれの言語において独自なもので,互いに異なるため,言語は指示・明示することもあれば,それと同時に,隠蔽することもあるわけです.人々は自らの言葉によって囚われの身となっています.この言葉の牢獄から逃れる術はありません.それは自分自身を脱するに等しく,それは不可能だからです.
この見解に異を唱えるものとしては,人間には統一された意識や精神があり,このような人間の本質的な統一性に基づいて対話が可能であるという見解があります.中でもとりわけそれは,コミュニケーション・テクノロジーの進展にともなって,対話が可能になるばかりではなく,対話が明示的で一般的なものとなると仮定しています.
しかしここでは,これら二つの相対立する主張の狭間にあって,われわれやあなた方の文化の存在の深層から発せられる,第三の声に耳を傾けてみましょう.禅を通じてわれわれが学ぶことは,人間は多弁な動物であるということです.アリストテレスの論理学や哲学は,人間を「話す合理的な動物」と称して定義付けたことにより,形而上学や西洋哲学の原型をつくることに貢献しましたが,禅はわれわれに対して沈黙の卓越性や優位性を説いています.そこでは「聞く」ことによってのみ,語りかけのできる沈黙があるのです.イルファーンと禅は,われわれに対して,いまだ言葉によって分節化されていない一つの現実を,いかにして経験できるかについて説いています.もしそのような意識の状態がわれわれに生じれば,その時にはわれわれの言葉は,もはや牢獄ではなくなるでしょう.音楽についても同様に,音階や演奏の合間に無音の間合がなければ,それは音楽ではなく,単なる騒音,雑然とした音の集積に他なりません.中国や日本の思想においてみられる,真空妙有の世界認識は,イスラーム哲学の言葉で語れば,世界の被造物は鏡の中に映し出された形姿のようなものととらえられます.それらは不変でもなければ,自主独立しているわけでもありません.しかし鏡に映し出されたものの中で,唯一,魔法のような方法で鏡の外へ踏み出すことのできるのが人間であり,しかもそれは,世界の真理を鏡の中に映し出されたもののように認識できるイルファーン的人間なのです.
このように鏡の枠から逃れようとするイルファーン的人間と,世界を空(くう)で認識する禅の修行者は,言葉を同じくする者同士であり,彼らは真実の対話が交わされることを可能にしているのです.
ただいま私が話しました状態は,大乗仏教の教えでは「空(くう)」といわれ,われわれのイルファーンの伝統では,「ファナー(消滅)」といわれます.この道筋を辿っていくと,本源的なあらゆる対話の基盤へと向かい,「永遠の言葉」へと達します.永遠の言葉とは,そのような沈黙や,沈黙の経験なのです.そして沈黙の木に咲く数千の言葉の花のごとく,そこには非存在から生起する存在や,静寂が奏でる音楽があるのです.
現在の世界は,西欧の思想とテクノロジーに全面的に制圧されたような状況ですが,上述したさまざまな異文化間の対話に関する理論は,世界が直面しているこのような危機的な状況を脱却しうる方策をわれわれに提示しているのです.
すでに実感しているような,われわれの自然環境を脅かす危機的状況やそれに類する危険を回避するためには,西欧の過去の文化や,インドや,イラン,日本,中国,他の諸地域の文化的遺産といった,さまざまな文化の深層から響く声に耳を傾ける他に道はありません.
(引用以上)